失語症

失語症患者のリハビリ

死刑と民意とトリアージ

死刑、マジで、なくした方がいい。マジで。リアルな話として。

よく自分が使う例えに「もしもBOX理論」っていうのがあるんだけど、これは「どう客観的に見ても、事象Aが一定の世間的な支持を受けているのは明らかにおかしい(=あまりにも理論的な説明がつかない)」という状態のときに、「もしもBOXで『Aを許容する』世界に常識が改変されているとしか思えない」と形容することを言う。やべぇ、この一連の文章ガチで失語症だな。な。ぜんぜん治ってないぞ。
とにかく、自分の中の価値観によるバイアスとか全部取っ払っても、どうあがいても「それ」が世間にはびこっていることが説明がつかない事象。もちろん人間は究極的には主観でしか物事を考えられないので、偏見を取っ払うとか歪みをなくすなんていうのは実質的には不可能なんですけど、にしても距離が遠いってこと。取り払いきれないであろう内なるバイアス分を考慮しても、「納得行く範囲」から500kmくらい離れてんの。これの代表例が「喫煙」「生活保護の受給条件」「死刑制度」なんですけど、喫煙とか生活保護に関しては今回は割愛するとして、死刑制度について思考のメモ書きをしていきたいと思います。よろしゅう。整合性はあんまりない。あるかもしれないけどスパゲティ・コードなので見てくれを考えてない。ブログ名の通り失語症なので、そこは考慮してください。

いやね、本当に、明確に、おかしいんですよ。日本、死刑制度賛成者、8割ですよ?え……?8割……?おかしくない??30人いたら24人が賛成してんの??そんなこと……ある?自分としては、もう、一ミリも賛成に寄っていない、言うならば「極反対派」なので、これは全く説明がつかない。2018年12月の時点で、死刑を法律上・事実上廃止している国が142 カ国ある時点で、77億人というフィールドでの多数決なら我々の圧勝なんで正直それでFAしてしまいたい気分なんですけど、駄目ですか?ずっと言ってるけど、多数決って77億を対象にしないと意味がない気がする……いや意味はあるんですけどね。なぜなら倫理も正義も環境と時代によって全く変わるので。ただ人の命を扱う倫理となると、世界規範に則って考えるのがベターじゃないんですか。賛成派がよく使う矢筒の中の矢の一本に「なんでもかんでもグローバルスタンダードが良いわけじゃない」っていうのがあるけど、多数決なんて基本母数が多い方が正確性(というか、信頼性)が上がるんだから、集合体としての道徳で死刑が駄目な時点でもう駄目ってことで良い気がするんですけどね。まぁこれは自分も暴論だと思うし、反対派は納得しないだろうから、これ以上言わないけど。

 

まずね。どこから……どこから話したものかな……正直、すべての反対派の理論を潰せる自信があるんですけど、それは目的から遠ざかるので、しないとして、死刑の是非のコアとなる部分をまず主張します。極限まで噛み砕いて言ってしまうと、「死刑制度」さえなくなればすべてが解決するんですよ。いや失礼、これは噛み砕きすぎた。これはただのヤバい平信者。順に説明するとねぇ……死刑制度で、賛成派と反対派がもっともぶつかり合っている部分って、「最大の罪である『人殺し』を『人殺し』を以て罰するというパラドクス」だと思うんです。人の命を奪ってはいけないから殺人は犯罪なのに、そのルールを破った人の命を奪うことで社会を浄化するって、フツーに考えて矛盾してるんですよね。(ここはあえて齟齬覚悟でシンプルな文章で叙述しています)

人を殺せば殺人なのに、死刑が殺人にならないのはおかしいじゃないか!欺瞞だ!というのが、まぁ、「賛成派が考える、死刑反対派のコア」だと思います。これに対する賛成派の十八番の矢を紹介する前に、最初に言った「すべてが解決する」の意味についての話に戻るんですけど、この議論 よく考えると ただひとつの行為によって解決すると思いませんか?そう……「死刑制度がなくなる」です。極端な話……いいですか?いいですか?今から言う部分が最も重要です。極端な話、「死刑制度がある社会」だと、「在る特定の環境下においては(under certain circumstances)、殺人が許される」のです。間違いなく。そして、「死刑制度がない社会」だと、「いかなる環境下においても殺人は許されない」のです。ここ!ここが超大事。ちなみに「許す許さない」っていうのは、国家権力によって裁かれるか否かって意味ね。不文律と時勢で構成される道徳とか倫理ではなく法治国家としての罪と罰の話。

結局問題は「人殺しのパラドクス」のみなのだから、死刑制度が消えてしまいさえすればここらへんのmoral ambiguityは全部解決するんですよ。「特定の状況で殺人を容認するシステム」が存在するばっかりに、人の命の重みやら生産性やら生きる価値やら面倒な曖昧さが出てくる。「何が起ころうと、相手が誰であろうと、人を殺してはいけませんよ」っていうルールを作って、それを遵守し続けるなら、今発生しているmoral ambiguityの8割以上は無に帰すはずなんです。だって、そこに絶対的なルールがあるから。人を殺しては、いけない。これに対して「国家ぐるみの場合は犯罪にならんZOY★」みたいなのが介入しないなら、これはもう、絶対的な存在となるわけで、我々はただそれに黙って従ってさえいればいい。こう書くと思考の放棄みたいに見えなくもないですが、こと人の命を扱う道徳においては個人の「思考」による変動が介入してはいけないと思う。リーガルハイでも言ってたじゃん、「裁判に民主主義を持ち込んだら司法は終わりだ」って。ていうか、今考えるとリーガルハイの「巨大に膨れ上がった民意」についての話ぜんぶ引用してこの記事終わってもよかったかも知れない。ともかく、基本的に裁きを伴う「善悪」に関しては法律が絶対であるべきなんです。なんのために私刑という言葉があるのか。「私刑」という言葉が辞書でなんて説明されてるか知ってますか?「法によらず、私人が勝手に加える制裁。リンチ。」ですよ。「リンチ」言うてもうてるやん。私刑に正しさなんか一ミリもないってことっす。

 

なんか失語症らしく迷走してきたんで、本題に入りますけど、お待ちどんでしたの賛成派の最大にして最強の矢、「遺族の思い」についての話です。これは……もう……ぶっちゃけていうと……俺は、全く意味がわからない。いや意味はわかるんだけど……いややめよう。主観の話をしてもしょうがない。とりあえず、「遺族の思い」とハッピーセットでついてくる「お前は自分の家族が殺されても同じことが言えるのか?」について片付けましょうか、先に。これは、以前別の場所でも言ったんですけどぉ、卑怯な論法なんですよ。卑怯っていうのは、ずる賢いとかじゃなくて、ひたすらに……理不尽。「1+1=?」に対する「田んぼの田」と「2」の後出しと本質的に全く同じなので。

~5分後~

えー、さきほど「以前別の場所でも言った」と言いましたが……、その、別の場所を探しても、なぜか文章が見つからなかったので、書き直します。めんどくせぇ~。えーつまりね?俺は、言えるのよ。結論から言うと。自分の親が凶弾あるいは凶刃に倒れたとしても、俺は赦します。よって「自分の親が殺されても(ry」への答えは、YESです。するとどうなりますか?賛成派は、あとは、発言者に「冷血漢(れいけつおとこ)」のレッテルを貼るだけで、終わり。勝利。エグゾディア発動。「サイコパス」の称号でも良い。どんなレッテル貼ってもいいです。勝ち。異常者認定して終われる。嗚呼、では私は二択を間違えたのか?。ここでセーブポイントから先程の選択肢に戻って「NO」と答えたとする。するとどうなりますか?………偽 善 者(Hypocrite)………THE END。「あれ~?死刑を拒絶しながら自分のこととなると口ごもるんですかぁ~~?””畢竟・欺瞞””の”””””偽善者”””」と一言言うだけで、反対派はおよそ最も刺されたくないであろう刃をブッ刺されたことになり、頭がおかしくなって一人残らず生命活動を停止するだろう。そう。実はこのクイズ、問われた時点で反対派がどのように答えても賛成派の勝利が確定しているんです。後出しで解答を変えられる。だから1+1問答と同じなんですね。

勝利っていうか、正確には議論を強制的に打ち切れるってことなんですけど、要するにこの質問はその時点で「議論の放棄」なんですよ。だって、肯定したら「そんな異常な思考回路のやつと話すことはない」で終わりだし、否定したら「持論に一貫性のない奴と話すことはない」で終わりだし。実際には別にこの質問にYESと答えてもNOと答えてもそこから話は掘っていけるはずなんですけど、賛成派はそれをすっ飛ばして破壊するカードが手元にあるので使ってしまう。だから、この質問は、無為(むい)です。キーボードのPowerキーくらい無為。動詞の「utilize」くらい無為。白紙に白いクレヨンを使うくらい何の意味もないので、やめようね。

で、だいぶ持って回りましたけど、「遺族の無念」について。これに対しては色んな角度から同量の切り込みができるので悩みどころなんですけど、そもそもの話からしよう。まずね、この「遺族の思い」という言葉が使われるときっていうのは、大体は「非親告」なんです。ちょっと用法違うけど意味は伝わると思うんで許して。つまり、遺族本人ではなく、無関係の第三者が「遺族の思いはどうなる!」とか「遺族の悔しさは計り知れない」とか、分かりもしないことを「代弁」して言うケースが多いんですよ。これもさっきの1+1問答と同じで、遺族が聡明な判断力を以て家族を殺した犯人を赦したとしても、賛成派の彼らの怒りは止まないわけなんです。「殺人犯に加担する異常者だ!」「こんな薄情な家族を持って、殺されたAさんはかわいそうだ」という展開の仕方もできるでしょう。つまり、賛成派にとって「遺族の思い」は、止まり木。あるいは盾。刃を振るうための方便でしかないんです。正義の名目のもとに人を殺す免罪符。まぁ、これは全員とは言いません。もし遺族が本当に加害者を赦したなら、「じゃあ僕からはもう何も言いません。本人同士の問題なので。」って引ける人もいるでしょう。ただ……これは推測にしかならないけど、そんな人は少ないと思うなぁ。どうも現実味のない例えに感じられるかも知れないので言っておきますが、自分の家族が殺されて被害者が赦したケースは実際にあります。赦したっていうのは、もちろん法律としての罰を受けないとかじゃないけど、気持ちの問題として赦したってことね。探せばいくらでも見つかるけど、私が特に印象深かったのはクリスティーナ・グリミーさんという女性に関する話。彼女はアメリカ合衆国のシンガーソングライターで、YouTuberとしても活動していてかなりの人気があった。が、フロリダ州オーランドでビフォー・ユー・エグジットとのコンサート終了後、彼女の熱狂的なファンの男性によって銃撃されこの世を去った(享年22)。その後犯人は自殺したらしい。そして、それに対する遺族の反応ですが……俺はこれをはじめて見た時流石に仰天したね。彼の父は、こう言ったんですよ。

 

彼女を失ったことによる心に開いた穴はとても大きく、永遠に消え去りはしないが、神の存在はその穴を埋めてくれるほど大きいと知っています。それに、私は彼女にまた会えると知っている。すべて聖書に書いてあるとおりだから。彼女は生きていた頃よりも幸福になった。もう傷つかなくてすむのだから。それに、神が決めるプランは、私が決めるプランよりもいつも良いものだ。

 

信じられます?信じられないだろうな。特に死刑賛成派の方々には。だって、あえて歪んだ言い方をすれば、「娘が殺されて良かった」って言ってるんですよ。「22歳の一人娘が、狂人に撃ち殺される」という神の決めたプランが、「善いもの」と言ってるんですよ。でも、この言葉には、深い、何よりも深い愛情と、誰よりも強い、平和への欲求があるんです。佐藤記者、あなたには分からないでしょうね。こんな事が言えるのはキリスト教徒だけだろうなと思う。自分はクリスチャンなんですが、これが宗教の最も偉大なところだと思う。すべての運命を神に信託することで、常人なら出来ないような「赦し」の精神が得られるのだ。これについても、宗教に対する理解が浅い日本では共感を得られにくいかも知れませんが、これについてまで説明してるとマジで10万字とかじゃ収まらないので今回は割愛させて下さい。「『祈り』は人間が持つ力の中で最も強力な力{唯一『自己保身本能を超えて自ら命を差し出すことができる』力(≒殉教)}」ということだけ覚えておいて下さい。

話が逸れた。今のは「家族を殺されても許せるのか」に対する具体例でした。ここでセーブポイントっていうか、中間地点として言っておきますが、先程のグリミー一家の話を「異常」としか感じなかった人は多分ここから先もどうやってもわかり合えないので残念ですがお帰り下さい。それでも自分なりに諭すことはできると思ってるけど、ここにそのための文書を書くには余白が少なすぎる(フェ並感)。

ちなみにここまでの文章、中段あたりに一つ致命的な問題点があります。突かれたら此処までの話が全部瓦解しかねない大穴があるんですけど、皆さん気づきましたか?気づいても黙っててね。気付かれない前提で書いています。じゃあなんでバラしたんだよ。なぜなら「指摘されたらされたで埋めるためのカードはありますよ」と言っておきたかったから。穴埋めしようとすると文章の流れ的に話が逸れちゃうんで穴ぼこのまま残しといたけど、時間があれば追記します。

 

それで、一番言いたかったことにとうとう入るんですが(おそすぎる)、「遺族の思い」という言葉、随分聞こえがいいが、「賛成派」がこの言葉を用いる時に、それが意味するのはとても邪悪なること。詰まるところ、「遺族の無念」とは、「人一人に死んで欲しいと願う殺意」以外の何物でもない。さあ、言ったぞ。こういうコンバーターを通して、彼らの論調を見ると、明らかにおかしいと思いませんか。

 

「死刑にならなければ遺族が報われない」=「死刑にならなければ遺族の『犯人に死んで欲しい』という思いが報われない」

 

つまり、現状「死刑制度」の正体とは、「代行復讐」なんです。遺族による直接の復讐は犯罪になってしまうので、代わりに国家が殺す。そして遺族やアンチ犯罪者(よい名称が浮かばないので便宜上命名)は溜飲を下げる。……尊師の死刑執行の時も言われてましたけど、これ、中世の娯楽処刑と何が違うんでしょう。我々反対派―というと主語が大きいのでやめるとして、「私というひとりの死刑反対派」の最大の思いとしては、「いかなる理由があっても、人一人を殺すことが『正義』になるようなことがあってはならない」ということです。どんな事情があろうが、人殺しが肯定されて良い訳がない。たとえ相手が何百人・何千人殺したテロリストであろうが、赤子を狙って強姦を繰り返した異常者であろうが、「ひとりの人間を殺す」事が”正しいこと”であっていいはずがないんですよ。より感情論から遠ざかって言うと、「あっていい」という前提で道徳デッキを組むことも出来なくはないけど、「あってはならない」という前提で組んだほうが絶対に矛盾やバグが少なくなるはずなんです。皆それが分かってるからどんどん死刑廃止していってるんです。で、こんなふうにいうと「じゃあ殺人者はどうなるんだよ、殺したい放題じゃないか!」「死刑が無かったら人殺しはやったもん勝ちになるだろ」って言ってくる人がたまにいるんですけど、そんなわけはないし色々と騙されている。我が国には終身刑っていう素晴らしい法律があるんですから、それをブチ込めばいいだけの話。殺人鬼の殆どが脱獄スキルを持っていて、捕まえるたびひっきりなしに脱獄してまた市民を殺して回るみたいな世界じゃない限りは、「危険人物を社会から隔離する」役割は終身刑で完全に賄えてるはずなんです。あと、はっきり言いますけど、加害者に苦痛を与えたいっていう目的なら「死刑」ってそんなに優秀じゃないっすからね。まず間違いなく、ほとんどの人間にとって終身刑の方が辛いと思う。死刑なんてお前、苦しまずに首ポキって終わるだけの話なんだから、加害者のカルマが高ければ高いほど罰としては意味を成さない。「無敵の人」って言葉もあるように、あんなのはむしろ死刑にしてくれって思いで飛び込んできてる闇属性の神風みたいなものなんですから、殺したところでなんの罰にもなっていないわけですね。むしろ死にきれない落伍者の終活の手伝いをしているだけ。じゃあなぜそれでも死刑なのかといえば、見た目的に一つの命をこの世から排除できるので終身刑より国民の溜飲が下がる。それだけ。よくよく反芻してみて下さい、この事実を。狂っている。人一人が生きていることに怒る国民が8000万人以上いて、そいつらのために人一人を殺して「殺しました」!っつって、あーよかったね、って、本気でやってんのかチミたち。それに、言っとくけど、死刑があったからって、殺したもん勝ちに変わりはないですよ。この世はずっとそう。社会的価値が低い者が、自らの命を捨てて自爆行動を行うだけで、社会的価値の高い人を何千人も殺せるっていうのはもう911で証明されているわけで、そういうテロリズムっていうのはやる側にしてみたらものすごく「コスパ」がいいんです。どんな底辺みたいな人生を這いずり回ってきた奴でも、適当に人混みに乗り込んでダイナマイト巻いて爆発でもすれば多くの「善良な市民」をブチ殺せるわけですから、こんなに効率の良いことはない。極端な話、「無敵の人」たちが全員覚悟完了して、可能な限り多くを道連れにするような自殺を決行しまくれば、これはもうまさしく超絶「殺したもん勝ち」なわけです。なんか話がおかしくなってきたかも……とにかく、死刑があろうがなかろうが殺したもん勝ちに変わりなんか無いってこと。失った命は回帰しないのだから。じゃあ、我々ができることはなにか?そろそろ最終フェーズです。ここからの主題は「失った命は帰ってこない」ことにある。それに対する落とし前をどうつけるかっていうのが死刑制度の是非にも関係していると思うんですね。失った命は戻らないから、こっちも加害者の命を失わせることでトントンにしよう、って?いやいやいや……トントンにならんし、そもそも。かの有名な殺人鬼、宅間守も言ってたじゃないですか。

わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に、生きていたんやな!ほんま、感謝しとる。 あのガキが8人死んでくれたから、俺が死ねるんやから 感謝せなあかん!死んでくれてありがとう!! でも、死刑になるだけやったら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!

 

……引用しといてなんだけど、さすがに吐き気がするなこの男。でも、Factsですよ。トントンになんかなりやしない。8人殺されて、仕返しに1人を殺して、何が帳尻合ったっていうんだ。失われた命が9つになっただけ。だから死刑っていうのは本質的に無意味なんです。どうも、上述の傍聴のあと「宅間、しねえええ」という怒号が法廷内を飛び交ったらしいんですけど、個人的にはこっちの方がずっと怖い。宅間守が吐き気を催す邪悪であることは認めた上で、こっちのほうが怖い。宅間守が悪として、「宅間、しねえええ」が正義なのか?人一人の死を心から願った怒号が正義なのか?もし、それがこの国家における正義なんだとしたら、俺はちょっとやっていけない。宅間守はこうも言っている。

あははははははは!ほんまおもろい!ワシは死ぬことびびってないで。 遺族にはなにもできへんし最高や!世の中どんなに金かけてもワシに一瞬に して殺されれば勝ちも負けもあらへん!

世の中は公平やない!。わしは世の 中の不条理をあのくそガキにわからせてやったんや。

ワシみたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供でもわずか5分、10分で殺 される不条理さを世の中に分からせたかったんや。

(中略)

ワシはいままで散々不愉快な思いをさせられて生きてきた、でも、今日は、ほんま ワシは気分がええわ。

 

 

これを、「悪魔」だとか「化け物」とかで片付けることは簡単でしょう。でも、残念ながら、宅間守は「人間」だ。我々と一つ違わぬDNA構成を持つ、同じホモ・サピエンスです。これはヒトという生物が持つ、一つの側面です。俺としては、まずそこを認めることから始まるのだと思う。同じ人間と思いたくないのはわかるけど、人間なんだ。悪魔なんかいやしない。どんな殺人鬼もレイプ魔も、人間だ。殺してやりたい奴もいれば長生きして欲しい奴もいて、うまいもん食ったら幸せになって、好きな漫画や小説があって、懐かしい歌があって、給食であげパンが出たときはテンション上がって、掃除の時間にホウキでチャンバラごっこしたことがあって、好きだった人がいて……同じ人間なんです。目をつぶっていてもしょうがない。植松にしてもそうだけど、こういう事件は誰もが必死に覆い隠すことで逃げようとしてきた「闇」にメスを入れた男たちの話なんですよ。一人の思想の問題ではなく、社会が抱える問題なんです。地獄から這い出たものではなく、ほかでもない我々が生きる現代社会が産み落としたもの。何かの歯車が違えば、誰もが殺人鬼になり得る。ちょっと思うのが、この考え方からして相違があるのかも知れない。私なんかは自分……に限らず、すべての人間は条件さえ整えば犯罪者になり得ると思っているのだけど、どうも死刑賛成派の人って「何をどうまかり間違っても自分が犯罪者になるようなことはあり得ない」と確信していそうで、そこも怖いんだよな。なんなら一番怖いわ。俺、殺人鬼と同居するよりそういう人と同居するほうが怖いかも。ヤバすぎるだろ。どういう自信やねん。あと、絶対犯罪者だし、なんなら。揚げ足取りみたいになって申し訳ないけど、20歳くらいまで生きてきて一度も軽犯罪犯したことのない人間ってほぼいないと思うわ。裁かれてないだけで。例えば煽りとかネタ画像的によく使われてる「漫画の一コマ」を一度でもネット上にアップロードしたことがある人は全員犯罪者だし、アニメとか漫画のキャラクターを描いてアップロードしたことのある人も全員そうよ。アニメアイコンとかもそう。あと他人の顔が写り込んでいる画像・動画を無許可でモザイク無しで上げるとかも。音楽関連で言うと、曲をアレンジしてアップロードしてみた!とかも、包括契約があったとしても著作隣接権が必要になるので無許可の場合はアウト。洋楽の歌詞を和訳してみた!も、もちろんアウト。邦楽の歌詞をそのままどっかに乗せるなんて言わずもがなバリバリに違法。ぜんぶ犯罪っす。国民は法律をすべて頭に入れているわけではないので、きっと誰もが知らないうちに犯罪を犯していると思う。そこらへんの考えが無いから「自分は犯罪者になんかなり得ない」なんて思っているんだろうか。

 

なんか迷走に迷走を重ねてアシストパワー撃ったら威力360くらいになってきたんでここらで引きますけど、とりあえず言いたいのは「死刑をなくすのは百利あって一害なし」ってことです。唯一害といえるものがあるとすれば命の維持費くらいだけど(死刑にすればその分囚人一人を生かすためのランニングコストがなくなる&独房が一つ空く)、それこそ倫理に反する行き過ぎた合理主義だし、そもそも「懲役」があるんだから終身で働かせることを考えるとむしろお釣りが来るでしょうよ。

酷なようだけど、家族を殺された遺族の方は、飲み込むしかないんです。殺し返したって何にもならんし、命は帰ってこないんだから。復讐は何も産まない。エルメェス読みでカウンターシールド置いておくと、復讐を肯定するならそもそも死刑なんて作らずに復讐を合法化してしまえばいい。正直ソッチのほうがまだ倫理的だと思う。それはそれでまた色々面倒なことにはなると思うけど、リーガルハイでも言ってように、国民は手をくださず国家が暗闇の中で殺すくらいなら、青空の下市中引き回しの上磔・火あぶりにした上でみんなで一刺しずつ 刺して、首をさらし、万歳三唱した方がはるかに健全。

 

最初の方で、「遺族の無念」に関して「意味わからない、いやわからなくはない」って言ったけど、俺だって、気持ちは分かりますよ。分かる。詳しく言うと身バレするのであんまり言えませんが、自分も身の回りで似たような経験はあるんです。だから全くない人よりは発言権があると思いたい。本当に、無念っていうか、怒りが湧くよ。善良な人が、誰よりも他人を思いやれる人が、その優しさのために黙って殺されるのは。そして殺した奴らは素知らぬ顔をしてのうのうと生きている。本当に許し難い行為。あまりにも、理不尽。なぜあの人が死ななくちゃならないんだ、なぜあいつらが生きているんだって何度も思ったことがある。地獄で燃えてしまえと思う。でも。でもな。飲み込まめないばっかりにまた命を奪うっていうのを繰り返してたら、””終わらない””だろうが!!!!!!!!!!!!

以上!終わり!閉廷!みんな解散!君ももう帰っていいよ なんか、まったくまとまりませんでしたけどね。本当は今話題の植松聖についてを中心に書きたかったのに。彼は、個人的には、世界で一番嫌いな人間ですが、あまりにも思想が「一貫」していて、彼なりの理論があってしかもそれに隙がないので、そこは畏怖せざるを得ない。そもそも彼を死刑にすること自体が「植松理論」の完成のための最後の一手なんですよ。「社会にとって不要な人間は死ななければならない」という彼の理論が、まさに国家によって是認されたことを意味するのだから。こうなるともうメチャクチャですよ。はっきり言ってこれでは、植松の勝利だ。そんなんでいいのか?お前ら……ええんか?お前ら……俺はもうヤバいと思う。今から100年後とかには、普通に植松聖が英雄として教科書に載っている未来が割とマジであり得ると思うくらいヤバい。そんなの絶対にごめんだろ。でも、このままだとほんとあかんっすよ。普通にその舵はあり得る。植松の勝利を阻止するなら今しかないぞ。死刑さえ無ければ彼の理論は瓦解するんだから。SNSでも植松 って検索すると「植松 死刑 当然」とかが出まくっててマジで怖いわ。何回でも言うけど、人一人が死んで当然ってどういうことやねん?人一人の死が決まって「よかった」ってどういうことやねん?いかなる文脈であってもそんなことが正義になる世界ってどういうことやねん?なあ。