失語症

失語症患者のリハビリ

本人の努力不足

「本人の努力不足」という言葉、とてもよく使われる。だが実はこの言葉がぶつけられる時はたいてい本人の努力不足ではない。少なくともそれだけではない。例を挙げると、いい大学に入れなかった。いい会社に入れなかった。恋人がいない。これらすべてまったくもって「本人の努力不足」ではない。理由を説明しよう。

例えば俺がある人物と中距離走をする事になったとする。しかしその人物はスタート地点が俺よりも100m後方から始まるものとする。尚、この『差』は双方の出場者が決まる前につけられて、双方の実力に関係なく勝手に割り振られたものとする。俺は意気揚々とレースに望んだが、対戦相手は実はウサイン・ボルトで100mの差などハンデにもならずボルトはあっさりと俺より先にゴールした。

さて、このレース、『有利』であったのはどちらだろうか?迷うまでもない。間違いなく『俺』が有利だったのだ。たとえボルトの方が速かろうがなんだろうがレースは双方が同じスタート位置であるべきだし、そうでなければとても公平とは言えない。地力の差ゆえのハンデと考えれば公平と思えるかも知れないが、さっきも言ったようにこの差は思慮して決められたのではなく天によって理由なくランダムに割り振られたものだ。つまりボルトは『理不尽に不利』を被った。しかしボルトは勝利した。人間というのはかくも脳なしなもので、この『勝利』という結果にしか目に行かない人が多い。このボルトの例だけを取り上げて「たとえ自分のスタート位置が100m後方からでも、勝てる人はいる。勝てないのは本人の努力不足だ!」と言っている人を見たらどう思うだろう。ちゃんと『それはおかしい』と思えるんじゃないか。その理由も説明できるだろう。そもそもわけもなくスタート位置が違うことが理不尽なのだ。同じ位置から始まっていたならボルトはもっと速くゴールしていた。シンプルなことだ。

それがどうして企業やら大学やらになるとごまかされてしまうのか。全く同じなんですよ。まず良い大学に入るには『学力』『お金』『良い大学』がいる。(ここを忘れる人が多い。たとえIQ200だろうが自分の行動範囲内に良い大学がひとつも存在していなければ意味がないのだ)これらを手にするためには『良い環境』がいる。これが田舎・都会の問題と出生時の実家の太さの問題だ。ここで各々のスタート位置が大きく変わる。まず金がなければ奨学金という生涯つきまとう借金に手を出さなければならなくなるし、近場に良い大学がなければ実家を離れるか手頃な大学で妥協しなければならなくなる。このへんについては一時期はやった下記リンクを見ればおおよそわかるだろう。

gendai.ismedia.jp

 

正直上記にだいたい言いたいことは書いてある。散々聞いてきた「田舎出身でも実家が貧乏でも、いい大学や良い企業に入って大成した人はごまんといる。それができないのは本人の努力不足だ!」がおかしい理由がわかったんじゃあないか。彼らは理不尽にスタート位置を後方にされているのだ。はじめから不条理に選択肢が狭められているのだ。「上京すればいいだろ」という意見は上記リンクの反論もあるし、そもそもそんな行動を強いられる時点で生まれながらに不公平と言えるんじゃないか。要するに言いたいことは、「本人の努力不足」というのは「Aさんが100の努力を分野Xに注いで手にした結果」と「Bさんが100の努力を分野Xに注いで手にした結果」が同じになるという大前提が必要で、Bさんが150の努力を注がなければAさんの100の努力と同じ地点に到達できないのならそれは努力不足ではなくただの理不尽だ。世の中に理不尽はつきものだが、ここでの理不尽は「どうしようもないもの」ではなく「各々の意識」で変わっていくものだと思う。